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沖縄問題を考える:作家・大城立裕が問う沖縄と東北の受難

1ヶ月ほど前の記事ですが、アジア太平洋地域に関する「ジャパンフォーカス」に載った"Okinawa and disaster-struck Tohoku region sacrificed for Tokyo"沖縄と被災した東北地方は東京の犠牲」をご紹介します。こうした議論は文中でも触れられているように東日本大震災後から言われ始めていたことですが、最近では少し忘れられているように思います。その意味では、改めて沖縄問題と東日本大震災の復興問題を考える機会にしたいと思い取り上げます。
なお、ゴリ丸個人としては、本記事で取り上げられている大城立裕を「小説琉球処分」で知っていましたが、そのほかの作品は読んだことがありませんでした。

(注:リンク、トラックバック、引用は出典を明記した場合に限りフリーです。出典を明記せず、または管理人の承諾なく一部ないし全部を転載することは、これを禁じます。コメントから連絡ください)

<開始>
大城立裕の作品では、戦争と抑圧という歴史的に悲惨な状況に翻弄される人々が描かれることが多い。日本の権威ある文学賞である芥川賞を受賞した作家が沖縄には4人いるが、彼は、米国統治下の沖縄で米兵に強姦された娘のために正義を追求する父親を描いた小説「カクテルパーティー」で沖縄の作家として初受賞だった(1967年刊 訳本は1989年刊)。
「亀甲墓」(1966年刊 訳本は2000年刊)では、昔ながらの大きなお墓に隠れて沖縄戦を生き抜き、田舎で先祖を敬いながら暮らして精神的に癒される三世代の家族が描かれている。大城文学の優れた点は、日常の報道記事の現実を超えて感動させる巧さと、遠く離れた政府によって課せられた危機に耐える登場人物を描く叙述的筆致にある。彼は様々な沖縄文化を描くが、それは単に「地方色」の背景としてにとどまらず、過去とのつながりを保ち、第2次世界大戦後に米軍によって強制的に接収された先祖代々の土地と平和に満ちた生活を取り戻そうとする人々の意欲とその価値を表現しようとしている。
近年の作品「普天間よ」は、常に騒音と飛行機事故の危険性に包まれた海兵隊普天間飛行場近くに住むある家族と、ヘリコプターの騒音で伴奏が聞こえなくなっても伝統的な琉球踊りを踊り続けようと決心したある女性の物語だ。後述するインタビューで大城は、東北の原発事故被災地域の近くに住む人々との連帯を表明している。なぜなら、彼らも反対の声を上げ、専横的で差別的な政策のつけを回されて危険にさらされているからだ。
沖縄で安倍晋三首相は、基地反対派が雪崩式に当選した先日の知事選を含めた選挙結果、世論調査、大勢のデモに表れた沖縄県民の圧倒的な反対にあいながらも、辺野古に海兵隊の航空基地を建設する計画を推進している。今や暴力的な警察はデモ隊に襲いかかり、負傷者が出ている。福島原発事故に関する日本政府の誤った対処は、さらに政府と危険を見くびり何千人もの住民を危険にさらした東京電力の誤った情報によって事態を悪化させた。いずれの暴挙も、中央政権から遠く離れ、日本の最貧層も住む地方を疎外した結果だ。

沖縄と震災被害を受けた東北地方は東京の犠牲
ハイビスカスが沖縄文化において特別な意味があることを知ったのは大城立裕の作品集「二十日夜」だった。私が日本最南端の沖縄県に着いたのは、死後の世界の正月を祝う祭りの真っただ中で、「あの世の花」として知られているハイビスカスを冷たい雨に濡れながら先祖のお墓に供える人々の姿は何かしら目をひくものだった。沖縄の悲劇の歴史に重なったのだ。
その日の新聞の見出しは、米軍のグアム移転と普天間飛行場の移設を含む米軍再編の話題で埋め尽くされていた。
「沖縄の新聞はいつもこんなもんです」86才になる大城は見出しを一瞥して言った。「沖縄はほぼ20年前に日本国内の植民地だとわたしは書きました。最初は言い過ぎたかと思いましたが、最近は『国内植民地』という表現が広く受け入れられているんですよ」
窓のところで見上げながら大城は続けた。「最近は寒くてね。だから服を着込むと被災地(東北地方の)の人たちは寒くないかと心配になるんですよ。沖縄と東北地方がこうしてつながっているなんて誰が考えるでしょう?」
大城は、東北地方は彼の心の中で特別な位置を占めているという。小説「カクテルパーティー」で芥川賞を受賞して授賞式に出席したとき、彼は大学時代の同級生の勧めにしたがって福島へも足を伸ばした。
何年もの間沖縄が蒙ってきた悲劇に焦点を当ててきたこの作家が言う「新連帯」とは何を意味しているのだろうか?答えは、国家権力が弱者に負わせる犠牲、言い換えれば政治的差別だ。
沖縄が日本の一部になったのはようやく19世紀末になってからで、明治政府は琉球王国を併合して沖縄県と改めた。サンフランシスコ和平条約及び日米安全保障条約が1951年に調印され、沖縄県は米軍の統治下に入った。結果として、沖縄は日本の国土の0.6%しか占めないのに、日本国内の米軍基地の70%以上が沖縄に造られている。一方、もっぱら農業と一次産業に頼っている東北地方は日本の中枢である東京の巨大な労働力源となった。そればかりでなく、もっぱら過疎地に建造された原子力発電所で生み出された電力は地元コミュニティを潤すことなく、東京やほかの大都市圏をまかなっている。
沖縄に軍事基地があるがゆえに起きた数多くの事故、事件も、東北における原発事故による危機も、表面上は地域コミュニティにもたらされた多額の交付金とのバーターと思われている。しかし、いまや国策に翻弄されてきた弱者の歴史や未解決のまま放置されてきた対立と矛盾をこれ以上見過ごすわけにはいかないところまでわたしたちは行き着いてしまったのだ。
「犠牲の押し付けは、あめとむちの状況です」と大城は言う。「この状況を変えるには、沖縄選出議員がちゃんと仕事をする以外にないのですが・・・」
大城が腕を組みかえたとき、外で耳をつんざく爆音が聴こえた。「軍用機ですよ」大城が教えてくれた。「いつも上空を飛んでいるので、この地域は騒音公害地域に指定されています。近くにある首里中学校は防音構造になっています。航空機がもっと低空を飛んで、みんなが話を中断せざるを得ない時もあるんですよ」これこそ沖縄の現実だということがわかった。
昨年、大城は短編集「普天間よ」を上梓した。最初の短編には同じ題名が付いていて、大城は飛行場近くに住む家族を通して普天間飛行場移設問題に食らいついている。
物語は琉球踊りの伴奏が米軍ヘリの騒音にかき消された時にクライマックスを迎えるのだが、ヒロインは踊りを止めない。彼女の決心は、軍事基地の重い負担に打ち負かされることを拒む沖縄の文化を表している。しかし同時に、米軍に接収された先祖伝来の地に埋められた家宝を見つけようという彼女の祖母の企みは失敗に終わる。
この作品で大城は妥協なき意思と打ち砕かれた希望を表現している。「この2つの両極端は軍事基地問題の本質を表しているんです」と大城は言う。「私が意図したのは、自分たちの歴史を紡ぎ合わせ、記憶の奥深くに沈んだ国を取り戻したい沖縄県民のアイデンティティについて書くことでした」
東日本大震災、それによって引き起こされた津波と原発事故は東北地方の多くの人々からふるさとを奪った。この悲劇が沖縄と何か連帯できるのかと尋ねると、大城は文学雑誌「文学界」3月号の入った包みを開けた。この号では大城の知人二人、福島に住む小説家の僧侶 宗久玄侑と元外務官僚の佐藤優の対談が「福島と沖縄から『日本』を読む」というタイトルで特集されている。
大城によると「玄侑さんが沖縄に公演に来た時にここに寄ってくれたのは1月9日だったと思います。わたしに佐藤さんと対談したと話してくれたのはこの時でした。玄侑さんは『この状況に対峙するために何かしなくちゃなりません』と言っていました」
この対談で玄侑は、米軍基地の問題とそっくり同じことが、福島に作ると言われている中間貯蔵施設なのだと言っている。ここでも政府の不作為が犠牲の押し付けにつながってしまった。現下の日本の政治的混乱状況の中で悲観的にならずにいられる理由などあるのだろうか?
「日本人は日々の生活の中で贅沢に慣れてしまいましたよね?わたしたちの生活から余分な脂と欲望を取り去ってくれるイデオロギーや政策は出てこないと思いますよ。それでもわたしは望みを捨てていません」
理由を尋ねると大城は答えた。「大震災にあっても被災地の人たちはパニックに陥らず、他の人たちに思いやりを持ちながら冷静に行動していました。これは希望を持てる話です。沖縄にも“ゆいまーる”という相互扶助の考え方が昔からあります。この気持ちを日本中で育むことができれば、ある種の新しい文明化を築くことができると思っているんです。」
その時、軍用ジェットの爆音ではなく、外で小鳥がさえずるのが聞こえた。
大城氏へのインタビューの後、私は沖縄の友人が運転する車で宜野湾市の普天間米海兵隊飛行場に向かった。宜野湾市は市長選の最中で、候補者と運動員たちが選挙民たちに大音量で支持を呼び掛けて選挙カーで走り回っていた。
「ほら、あれは給油機のKC130ですよ」突然友人が言った。「タッチアンドゴー訓練です」
ちょうど真上を黒い飛行機が通り過ぎるのが見えた。その爆音で選挙カーのアンプから繰り出される選挙公約の声がかき消された。これが沖縄の日常なのだと思った。「弱者に課せられた犠牲」をほんの1分でも体験しなさいと言われた大城の言葉の重さに、わたしは打ちのめされた。
<終了>

【ゴリ丸の感想】
いろいろな考え方があるでしょうが、改めて問題提起する姿勢が日本のジャーナリズムに今でも残っているのか、たいへん心もとなく思ってしまいます。文中にある宗久玄侑佐藤優の対談は「文学界」2012年3月号に掲載されたものです。もう3年が経ちましたが、この議論はどこに行ったのでしょうか? ジャーナリストの一体誰がこの議論を追いかけているのでしょうか?(批判でも構わないのですが)
~この稿おわり~

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